in te redi / Weblog : September 2008

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Tab Sidebar - タブバーの縦置き用アドオン

September 07, 2008 14:55

20080907b.png

Tab Sidebar(Firefox Add-ons)
タブバーが縦置きになるだけでなく、各タブにページのサムネイル表示と、戻る/進むボタンを付けられます(非表示にもできます)。

20080907a.jpg

また、ツールバーのボタンでそれまでの横置きタブバーと表示を切り替えられるようにもできるので、サムネイル表示が必要な時や、縦方向の表示領域を確保したい時にすぐに縦置きにできるのも良い点。

Throwing in the Towel(Oxymoronical)
残念なのは、どうやら作者がこれ以上のアップデートをしないと表明されていることです・・・;

読書は役に立つのか

September 07, 2008 01:40

本を読まない人間

このエントリを一読して、この増田さんの問題意識の奥には、大昔から続いている(らしい)「実学と虚学論争」と同じ構造があるのでは・・・?という気がしました

本を読まない人間
本を読まない人間を軽蔑していた。
こいつまったく勉強する気がないな、と。
私自身、月に20??30冊は読む。
けど、本を読まない人間にいくつか反論されて、言い返せなかった。
いわく、「そんな本読んでなんの役に立つの?」
確かに読んでも役に立たない本も多い。そんなにバリバリ読む必要はないのではないかと思う。
いわく、「勉強してる気分になりたいだけなんじゃないの?」
読みたいから読んでいるんだが、なぜ読んでいるかと聞かれると、読んでないことが不安だから、勉強し続けてないと不安だから、というのもあるように思う。
いわく、「実体験から積み上げたものじゃないと信用できないよ」
これはどうかと思う。ただ、生活に生かせない読書をしてもしょうがない、というのであれば、まあ一理あるかもしれない。
そう考えていくと、本を読む自分を自己肯定したいだけなんちゃうんか、と。
読む冊数、減らそうかな・・・。

本を読みすぎること自体、自分で考えることを放棄しているんじゃないかと自問することもしばしばだし。

まずハッキリさせたいのは、仮に増田さんが読書しない人を軽蔑するのを止めて、読書量を減らせば、「そんな本読んでなんの役に立つの?」 という問いにスラスラ答えられるようになるかというと、決してそうではない。ということです。

もちろん、読書を減らして「役に立ちそうな本」を読むようにすれば、「そんな本読んでなんの役に立つの?」という問いへの答えがスムーズに言えるようにはなることは当然。でも、そこでは、読書量を減らす前の増田さんが読んでいた「役に立ちそうもない本」を増田さんが手に取った理由・・・つまり「そんな本読んでなんの役に立つの?」 という問いへの答えを見つけられるようになるわけではない、ということです。

つまり、読書しない人に対する増田さんのスタンスと、「そんな本読んでなんの役に立つの?」 という問いは、実は別々の問題だった・・・かもしれない!ということです。

Kousyoublog | 読書は役に立つのか?という問いについて

読書は役に立つかという疑問は、役に立つ本もあれば役に立たない本もあるが、役に立ちそうな本ほど役に立たず、何の役にも立ちそうもない本が長い目で見ると役に立っていたことに後で気付くこともある。しかし気付かないことも多いし、役に立たなさそうな本が本当に役に立たないことも当然あるという、なんとも曖昧で禅問答的な答え方になってしまうんじゃないかなー。

この記事にトラクバックされている別の方の記事で、上のように述べられてますが、こういった問題を話し合っていると、どうしても禅問答的になりがちです・・・

そうなってしまう背景には、私たちがその問題について「考えている」つもりになっているように見えて、実は、元エントリにあるように、私たちが自分で考えることを放棄している状態・・・というものがあるんではないでしょうか・・・

それはつまり、「(役に立つかどうかわからないのに)読書すること」が「考えることを放棄している」ことになるとすれば、それ以前の段階で「読書は何かの役に立たなければいけない」という前提をそのまま受け入れることも、「考えることを放棄している」ことになるのではないか・・・ということです。

これと似たような問題について、ある方がおもしろい応答をした例です。

「これを勉強すると何の役に立つんですか」に絶句する山田晶先生(哲学科教員ブログ)

授業料が上るということは、学問をするのには金がかかるということを意味する。そうなれば、そのかかった資金を回収しようという意識が促進され、高等教育が一種の「投資」ということになってしまう。つまり、授業料値上げを見過ごすことは、このような「教育投資論」の定着を認めることになりはしないか。文学部教授会はこれを認めるのか?

これに対して、山田先生はしばし絶句された。
そして、不思議そうな表情でわれわれに聞き返してこられた。
「どうして、学問をするとお金が儲かるのですか?」
田中君はシドロモドロでもう一度説明していたが、その後どうなったかは覚えていない。

ここでの絶句と返答は、(学問に)かかった資金を回収しようという意識が促進され、高等教育が一種の「投資」ということになってしまうという問題意識の根底にある「学問することがお金儲けにつながっている」という前提に対して向けられたものだと思います。

もちろん、絶句するということは、「学問が投資になってしまってもいいのかという疑問」への回答を避けているということであって、ある意味「逃げ」かもしれないわけです。

でも、「学問は何かの役に立つべきである」という前提の中だけで学問することの意味を語らなければいけないとすれば、今度は、「私はなぜ(役に立つかどうかわからなくても)学問するのか」という問いへの答えが出せなくなってしまうと思うのです。

この絶句と返答は、無意味なものではなく、問いを向けた人に対して、その問いを差し戻すことによって、その人の疑問の内側に、さらに疑うべき領域が残っているということを「気づかせる」ものであって、そこから「学問する(そして、読書する)意味」の新たな側面も、見えてくるのじゃないでしょうか・・・。

ヒトはなぜゾウに似ているか

September 06, 2008 05:50

NHKの解説委員ブログはたまに個人的に大ヒットなんですが、昨日も面白い記事が載ってました。

視点・論点 「ヒトはなぜゾウに似ているか」(NHKブログ)

(ちょうど先日、鼻で絵を描くゾウ画伯の動画を見て驚愕したばかりの私を含む)多くの人にとって意外すぎるタイトルの記事だと思うのですが、ぜひ読んでみて下さい。

人間は、チンパンジーに似ています。当然です。しかし、私たち人間、ヒトが、ゾウに、似ていると言われても、納得できませんね。

さまざまな哺乳動物たちの体型、つまり身体の構造の大枠が、生活の仕方との関係で、どのように「デザイン」されているかを見てみましょう。考え方のヒントになるのは、動物たちの身体の支え方、歩き方や走り方、そして、餌の採り方です。

「進化」と反対の「デザイン」というとちょっとアレかもしれませんが、進化や遺伝といった「縦」の流れだけ見ていても気づかないような種族の「近さ」が、生活だとか体のしくみだとかの「横」の広がりのなかにもたくさん見出せるということを、「デザイン」という言葉で表している・・・のだと思います。

この記事を読んで、ゾウ画伯の動画を見ながら改めて考えてみると、上の二つのデザインはかなり「近い」ことに気づきます。さらにそこには、大地を踏みしめるような太い足を持つ生き物は、身体の他の部分が器用になるという共通点もある気がします。